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>人物伝 |
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短期間で人材を育てた吉田松陰
(吉田松陰)・思想家・教育家・1830-1859
長州(現在の山口)萩に生まれる。幼名は虎之助。山鹿流軍学師範の叔父・吉田大介の養子となる。軍学師範を継承。11歳で藩主を前に講義をする。1854年、アメリカへの密航を企てて逮捕。出獄後の1857年に藩の許しを得て松下村塾を開く。幕府が米国との通商条約に調印した事を憤り、尊皇攘夷を唱えて再び入獄。「安政の大獄」に連座して、江戸伝馬牢の刑場で処刑される。
書籍紹介:
「吉田松陰留魂録」吉田松陰著、古川薫全訳注/講談社学術文庫
松陰が処刑される前日に書き終えた、文字通り「魂を留めた」遺書。
「炎の如く 吉田松陰」1991年に山口放送開局35周年を記念して制作され、好評を得たテレビドラマをのDVD版。
30年に満たない短い生涯の中で、高杉晋作など維新で活躍した人材を多く育てあげ、人材育成に高い功績を残した吉田松陰。彼が松下村塾で、青年たちを教えた期間はわずか1年半にすぎませんが、何故そんな短期間で歴史的な人材教育が成し遂げられたのでしょうか。
松陰が5歳の時、叔父の吉田大介が亡くなりました。藩の軍学師範をつとめていた叔父には子供がいなかったので、そのままでは絶家となってしまいます。そこで親戚一同が協議をして、松陰を吉田家の養子にして家を継がせることになりました。その日から、松陰は軍学に詳しいもう1人の叔父によって、すさまじいスパルタ教育を受けました。松陰が少しでも手を抜くと、叔父の鉄拳が飛んできたといわれます。そうした教育の結果、松陰は11歳にして藩主を前に軍学講義をできるまでになりました。
松陰がもう少し前に生まれていたならば、有能な軍学師範として終わったのかもしれませんが、時代は激動の幕末で何十門もの大砲を装備した黒船が到来し、従来の軍学は通用しなくなりつつありました。
松陰が江戸遊学中にペリーが来航(1853年~54年)に遭遇しました。米艦隊を目の当たりにした松陰は、衝撃を受けます。日本が時代に取り残されてしまったことをいち早く悟ったのです。焦燥にかられた松陰は、弟子の金子重輔とともにペリーの艦隊に接触し、「アメリカに連れて行ってくれ」と頼みました。しかし、ペリーは乗船を断らざるを得ませんでした。国を思いやる心からの行動とはいえ、松陰らのやったことは密航の企てです。今で言えば、密入国を企てたことになるのでしょうか。2人は自首し、松陰は長州藩の「野山獄」に幽閉の身となりました。当時の牢獄ですから、冬は寒く、夏は暑く、それはひどい環境でしたが、松陰は勉強に勤しみました。出獄するまでの1年2ヶ月で600冊の書物を読み、「野山獄文稿」などの執筆もしました。また、囚人たちを集めて「孟子」などを講義し、最年少でありながら囚人たちに師と仰がれる存在となったのです。
共に密航を企てた金子重輔は病の為、獄死しています。その際松陰は、何日かの食事から汁と野菜を抜き、その分を金銭に替えて遺族に贈ったそうです。獄中の貧しい食事をさらに削ってまで、弟子を弔おうとする真心にふれて、囚人たちもおのずと松陰を師と仰ぐようになったのでしょう。
その後で、松陰は実父・杉百合之助の家に謹慎の身となりました。藩主は、松陰が杉家で学問を講ずる事は特別に許可しました。そこに、1人また1人と門弟が集ってきて、歴史に残る「松下村塾」が始まったのです。松陰が青年たちを教育した期間はわずか1年半です。にも関わらず「松下村塾」からは、高杉晋作、久坂玄端、伊藤博文、山県有朋など、維新前後に世を動かした、そうそうたる人材が数多く育っています。その理由はどこにあったのでしょうか。
考えられることの中の1つに、松陰が全ての人に対して対等に接したということがあります。長州藩には明倫館という藩校がありましたが、入校が許されるのは藩士の師弟のみでした。「松下村塾」は、身分に関わらず門下を開き、身分に関わらず足軽や農民、商人の子らと対等な立場で学習ができたのです。また松陰は年少の弟子に対してもその人格を重んじ、礼を尽くして接したとのことです。
話は替わりますが、今から約25年前の語学学校は、ある意味で門戸が広く開かれた学校ではありませんでした。学習者は、語学を必要とする仕事に従事する、もしくは従事しようとする人、留学の準備をする人、金銭的にある程度余裕のある人が、学習をする場であったように記憶します。
当校が、田園都市線、及び小田急線で定評を頂いた理由の1つに、どのような生徒さんでも目的の如何に関わらず、公平な対応をした事が挙げられると思います。現在では語学教育に対する理解も深まり、考えづらいことかもしれませんが、幕末では学問は非常に限られた人が習得できるものだった様です。
松陰のもう1つの特長は、学問の知識だけではなく、生き方を教えたということです。日本の未来の為に何を成すべきかを日々熱く訴えかけたと言われています。弟子たちにとって松陰は、人生の師でもあり同じ目的を持つ同志でもあった訳です。
1858年、大老・井伊直弼は、朝廷の意向を無視して「日米修好通商条約」に調印。これに反対する尊皇攘夷派を弾圧しました。松陰も調印に強く憤る1人であった為、老中・間部詮勝の暗殺などを計画していました。そして、弾圧の極点となった「安政の大獄」に参加し、短い生涯を閉じたのです。
処刑を前にして、獄舎で書かれた遺書「留魂録」には、弟子たちに後を託す言葉が並んでいます。「同志諸君、私の敗北を厳しく追究してくれ。一度の敗北で挫けるのは決して勇士のすることではない。頼むぞ、心の底から頼む。」との主旨が書かれていました。これは、私はあなた方の師匠ですが、私が失敗したことを参考にして、あなた方は乗り越えて下さい。さらに素晴らしい人になって下さい。との意味合いが込められている様に思います。
これは、語学教育にも通ずるところもあり、高度な語学能力を習得する為には、ある程度の期間が必要です。1つや2つのことが分からなかったとしても、そこで嫌になってしまうのではなく、松陰の事例と比較する訳ではありませんが、強い意志を持って学習に望んで頂ければ幸いです。
当校ではまた、帰国子女教育に定評を頂いております。何故帰国子女教育が得意になったかというと、ただ英語を教えるだけではなく、幅広い知識を英語という言語で教える方法を模索したからです。これらの教授法に到達するに至って、松陰の事例が参考になった事は言うまでもありません。
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